数年前の4月。大学を卒業して、周りのみんなが社会人になるタイミングで東京に来ました。
仕事があったわけでも、頼れる人が居た訳でもなく、ただモデルになりたいという夢を追っての上京でした。学生の途中まではちゃんと就職活動もしていて、大手ではないけれど働きやすそうな企業に内定ももらっていました。普通に社会人として働くつもりで着々と準備をしてきました。
でも今まで無意識的に高校、大学、就職活動と「普通」というルートを選んできた反動でしょうか、「せっかくならモデルに挑戦してみたらいいのに」という友達の何気ない一言で、自分に出来る訳がないとずっと諦めていた夢に挑戦してみたくなったのです。
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思い描いていた暮らしとは少し違っていた東京生活
「四年生大学をちゃんと卒業までしたのになんで安定のないことをしたがるの」と親に反対されたことを今でも覚えていて、あの時はろくに聞く耳を持たず、喧嘩別れのような出て行き方をしてしまいました。
東京までの移動手段は格安夜行バス。おそらく片道3,000円くらいだった気がします。
キャリーケースとリュック、大きいトートバックに暮らしていくための最低限のモノを詰め込んで、荷物の重さでヨロヨロになりながら梅田のバス乗り場に向かいました。8時間、隣との距離が近いカチカチの4列シートにずっと座ります。
全然眠れなかったし、翌日の疲労感はすごかったけれど、そのときの自分には時間がかかる道のりの方がきっと合っていて、車窓から過ぎていく真夜中の大阪の街を眺めながらこれからの事を考えていました。
故郷を離れ東京での生活が始まりましたが、思い描いていた憧れの暮らしとは少し違っていました。
家賃が安いからと借りた府中のマンション。最寄りの駅前には変質者出没注意の看板とブルーベリー畑が広がっていました。いつも混んでいる京王線。席に座れないことはざらにあって、各駅停車から特急に乗り換えたりと都内に出てくるだけで1時間以上かかりました。
その頃の仕事はモデルというよりも、映画のエキストラや展示会でコンパニオンのようなことばかりしていて、それさえもない日は1日中飲食店のホールでバイトをしていました。一応事務所に所属していましたが、経歴もない無名の22歳をモデルとして扱ってくれる場所なんてどこにもなかったのです。
それでも働けるだけマシだ、これからだと自分に言い聞かせていました。
ある日の赤坂での撮影終わり、12時を過ぎていたので「これで帰ってください」とスタッフさんにタクシーチケットを渡されたことがありました。でも自宅までだとチケットの上限1万円を超えてしまうので、はみ出た分を自腹で払わなければなりません。
お金がなかった私はそれがどうしても嫌で嫌で、タクシーを途中で降りて、星を見上げながら歩いて帰ったの、その時の景色をなぜか今でも鮮明に覚えています。
大阪に住んでいた時に外から見ていたあの「東京」はきっと都内23区内でも限られたところが舞台になっていて、芸能人、インフルエンサー、著名人、輝いて見える人達は言わずもがなその円の中心にいたのです。
そこから完全にはみ出していた私はどこか違う場所にいるような、自分がいまどこに立っているのか、どこに向かうべきなのかさえ分からないような、そんな不安な気持ちをいつも抱いて過ごしていました。
一つ一つの変化に喜びを感じられるのなら、あの時間も必要だった
それから何年か経って、叶えたかった夢のいくつかは思いもよらぬ形で現実になったりしました。
憧れていた人とテレビ番組で共演できたり、雑誌で特集されたりと。予定がバイトばかりだった、オーディションに行ってもすぐに帰されることが日常だった当時の自分と比べると、幾分か恵まれた環境に居れるようになったと思います。
上京したてのあの頃の事を大袈裟に下積み時代なんていう言葉にするつもりはありませんが(なんなら今も下積み真っ最中だと思っていますので……)、あの春に東京に出てきて何一つ思いどおりに行かなかった日々を生きてきたからこそ今、一つ一つの変化に喜びを感じられるのならあの時間も必要だったなどと思うのです。
「なんとか踏ん張って生きる」
思い通りに行かないといえば、今すべての人達がコロナウイルスの影響で我慢を強いられていたり、納得のいかない日々を過ごしていると思います。SNSでは常に誰かが誰かに怒っていて、現実でも「マスクなんて必要ないんや」と駅前で怒鳴り声をあげて、警察ともみ合いになっている人を見ました。
私も仕事のほとんどが無くなって、どうしようもなく大阪に戻ってきました。飛び出していったのに帰る場所を作ってくれていた家族には感謝しかないのですが……。
いつかこのコロナの時代も振り返ってみると必要だったのかもと思える日が来るのでしょうか。こんなことは今、死ぬほどつらい思いをしているわけではないから言える綺麗事なのかもしれません。
でも未来でそう思えるように、なんとか踏ん張って生きなければいけないなと、ふと考えるのです。
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